-MASUNAGAsince1905-④


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アイアイイスズの長安です。

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五左衛門と同郷で同級生の増永伍作は、幸八より一足早く大阪に出て眼鏡ケース製造を営んでいました。幸八は同郷のよしみということで伍作の元で、ケース作りに協力していました。

明治37(1904)年暮れに、大阪に出ていた幸八が、大坂の眼鏡卸商「明昌堂」(伍作(五左衛門の同級生)・幸八の出入り先)を営む、橋本清三郎氏と巡り合い、めがね作りを勧められたとの情報を五左衛門にもたらします。五左衛門は再度の失敗は許されないため、自ら大阪に出向き、幸八の情報源である東区唐物町の橋本清三郎を訪ねます。


-日露戦争が終わると、日本は必ず世界のひのき舞台に躍り出る。文明はさらに進み、印刷文化も伸びる。眼鏡が社会の必需品になる日は近い。いまこそ生野に眼鏡製造の基礎を持ち帰ることが、村のため国のためになることだ。-
橋本は、大阪眼鏡会でも鋭い時代感覚の持ち主として知られる人物だったといわれています。橋本は、新たにやる以上、軌道に乗るまで人一倍の忍耐と努力が必要なこと、それには資本もさることながら、まず優秀な職人を集めることが大切なことを付け加えるのも忘れませんでした。

明けて明治三十八年春。地元工員の募集にあたる五左衛門は、村でも腕利きの大工、増永末吉の家を訪ねた。大阪で橋本の話を聞き、幸八と増永伍作宅でじっくり相談して帰福した五左衛門は、既に前に進むことを心に決めていました。ただ一つ、橋本にも言われた優秀な人間をまず得ることが出来るかどうか気懸かりでした。末吉を訪ねたのは手先の器用さを見込んだのです。ぜひとも力を貸して欲しいという五左衛門の申し出に、末吉も最初は二の足を踏みます。だが、五左衛門も引きません。-村のためにもこの際、思い切って新しい仕事に取り組んで欲しい。資本は何とかする。必ずうまく行くという保証はないが、幸い羽二重織物を手掛けた工場がある。力を貸して欲しい-。連日のように訪ねては説得する五左衛門の熱意に、末吉もとうとう腹を決めます。

慎重に準備を進める五左衛門は橋本清三郎の力を借り、大阪から眼鏡職人 米田与八を迎え、明治三十八(1905)年六月一日、生野で眼鏡作りが始まります。増永一期生と呼ばれる末吉たち数名が、彼の指導の下、挑戦を始めました。もともと手先の器用な人員を集めていたうえ、その情熱はすさまじく真鍮の眼鏡作りを3年かけて学ぶ予定が、わずか半年で覚えてしまいます。しかし価格の安い真鍮だけでなくもっと上物を、でないと時流に残っていけないとの思いから、職人米田を引き上げ、金張製品の名工 大岩金之助(東京)の門下生の一人 豊島松太郎を技術指導に呼び寄せます。生野の若者や近隣のものが、徒弟奉公として彼から血まなこで技術を学び、新しい素材赤銅やその他の素材を使った眼鏡作りに意欲を燃やします。

奉公には3種類あり、通勤が3年、住込み年期奉公が5年、徒弟奉公は入門時に差込契約書を書き、途中で辞める時は損害金を払わねばならないという厳しいものでした。ただ一つ、職人にとっての楽しみは、尋常小学校(4年)しか終了していない若者のために、五左衛門が夜、2時間ずつ学校を開いたことでした。明治39(1906)年増永工場の職人は13人と倍増していました。
当初は足並み揃えて切磋琢磨していた職人たちですが、やがて帳場制を導入していき、職人同士が競争相手となり眼鏡の技術が磨かれていきます。

参考文献(おしょりん 藤岡陽子著・他)写真はイメージ

続きは次回、ではまた。

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