-MASUNAGAsince1905-②


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アイアイイスズの長安です。

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五左衛門の生まれた生野の文殊山の麓には、主計郷七村と言われる森行村、末広村、主計中村、三本木村、鉾ヶ崎村、角原村、生野村があり、七つの村すべてから文殊山を眺めてみることができたそうです。文殊山は越前の僧であった泰澄大師が開いた霊山とされ、西の越智山、南の日野山、北東の蔵王山、そしてそのさらに奥にある白山、これらを称して越前五山と呼ばれています。足羽郡麻生津村の村人にとって文殊山は信仰の山でもあり、大文殊の本堂には文殊菩薩が、別山と呼ばれる小文殊には室堂が建ち聖観世音菩薩が祀られています。

そんな生野で若くして村会議員などを務めながら村の発展に尽力してきた五左衛門ですが、農業以外で村の発展に寄与し収入に結びつく仕事を定着させることが永年の願いでありました。

五左衛門には弟がおり増永家の末弟であり名前を幸八といい、16歳で東京に住み込みで帽子屋で働き、文明開化の音がする断髪令による帽子の需要の増大に応え、時代の流行による産業の盛衰がどういうことなのかを丁稚として働きながら学び、故郷の人々の暮らしを良くするための方策を考えている、五左衛門とはまた違った方向からアプローチしている男でした。

その時代背景として、明治6年(1873年)に明治政府が実施した「地租改正」により、地主は政府に米ではなくお金で税(地価の数%)を支払わなければいけなくなります。これは政府の税収を安定させる一方、農民からすれば豊作・凶作に関わらず一定のお金を払わなければいけないため、米価や収穫量次第では支払いが困難になります。つまり、安心の生活を確保するためには農業以外の貨幣獲得手段を得ることが必要になってきます。

福井では明治20年に桐生から技術者高力直寛※2を招聘することにより羽二重織技術※1が伝わると、羽二重はまたたくまに嶺北※3全体に波及し、この頃には足利・桐生を凌ぐまでに成長を遂げていました。

そのような社会状況の中、明治31年(1898年)、大阪から帰省した幸八の勧めにのる形で五左衛門は盛んになっていた絹織物の工場を地元に2階建の工場を建て織物業への進出を目指し、「福井羽二重」を手がけ始めました。最初はこの羽二重工場によって、農業だけが生業だった村の将来の安全を担保しようとしたのです。

しかし、そもそも明治30年代から日清戦争特需後の反動により日本経済が不況に見舞われており、不況の煽りを受けた形で福井の士族が出資して営んでいた第九十二銀行が破綻してしまいます。そのせいで生糸商の資金繰りが危うくなり、機業家の貸付が回らなくなっていき、さらに明治33年(1900年)、福井で2000戸以上を消失させた大火事(福井大火)があり、焼失などにより機屋は相次いで倒産し、そのあおりも受けて五左衛門の工場も閉鎖せざるをえなくなりました。

加えてこの恐慌が生糸への投機が原因であったこともあり、織物業に対する熱は冷めたものとなってしまいます。しかし、織物に代わる新たな仕事は容易には見つかりませんでした。

参考文献(おしょりん 藤岡陽子著)写真はイメージ

続きは次回、ではまた。

※1羽二重(はぶたえ、英: habutae silk)は、平織りと呼ばれる 経糸 ( たていと ) と 緯糸 ( よこいと ) を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。 絹を用いた場合は 光絹 ( こうきぬ ) とも呼ばれる。羽二重餅(はぶたえもち)は餅粉を蒸し、砂糖・水飴を加えて練り上げた、福井県の和菓子である。 福井県では羽二重織りが盛んであり、よく生産されたため、羽二重にちなんで1847年創業の錦梅堂にて作られた。食感は非常に柔らかい。

※2高力直寛http://okhome.fc2web.com/person/kouriki.html

※3嶺北(れいほく)は、福井県の木ノ芽峠以北の呼称。令制国の越前国にほぼ相当するので、越前地方(えちぜんちほう)と呼ばれることもある。

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